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| 九日は例年の通り忌篭。氏子中の家の門戸背戸は筵をたれ、松を逆さにつり慎んでいる。御社頭もこの日は燈明もなく、暮六つ(午後六時)には門を堅く閉ざす。御本社には幕を張り拝殿には簾を打つ。九つ時分(正午)諸国より参詣がある。十日は鶏鳴より御神前へ燈明、また南宮には篝火を焚く。御本社へ御膳御神酒掛鯛を供える。七つ時分(午前四時)より諸国参詣で群参する。境内には鯛売店七十人余りが軒を並べる。札場では神像札が四千四百三十体出された。八つ時(午後三時)尼崎より若殿様、松原将監殿が社参される。拝殿にて御神拝の後松尾社あたりまで一見され御下向となる。終日群集であったが別条なく御神事を執行する。 |
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祝部大森主膳の跡目相続の養子のお披露目が二月二十一日に主膳方で行われた。祝いとして神主方より酒二升を贈る。酒肴五種、吸物一、本膳一汁五菜など種々の饗応に預かる。三月朔日に初出勤、同日の御三社の御供えは主膳より献上す。
十月七日祝部田村伊織が死去す。宗門除印願について村方とあれこれと争論があり心労を致していた。寺僧は先格の通りに執行。
倅の常蔵も長々病気の処亡くなる。跡相続の養子もなく、娘二人だけである。先年の申し定めの通り御神領米割方、御役料は一人前の半分とする。御神事毎の役料は勤めた場合は一人前、勤めなかった節は半人前を渡すのが先例である。
尚、尼崎藩内神職の宗旨除については、西宮社神主は明和六年(1769)に西宮が上知となった際「大坂御支配之内神職中ハ宗旨寺印無之一判ニ而人別書付差出シ候義者御番所御定通事」と申渡され、この結果旦那寺であった西安寺に神主より話を通すことによって済んだ。
貴船、初嶋、若宮、生田神主は寛政二年(1790)にこの宗旨除の儀を申立て寺側と懸け合った処寺僧は承知した。当社の祝部中については寛政二年より同様の申立てをしたが、村方や旦那寺が得心せず事が進まなかった。 |
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当社配下として同郡荻原村に安川左京という者がいたが、同村名主五左衛門と出入に及んでいたところ行方知れずとなった。
このため同郡山田村の触頭白井紀内がこの旨を江戸支配所に届け出た結果、左京の檀家(配札場)を白井が引き受け、また老母と幼少の娘も世話するようにと仰せ渡した。これによって白井が左京に代わって檀家廻りをして配札を行おうとしたが、五左衛門が再び配札は無用と断ってきた。古来よりの職分を差し留められては御神慮の程も恐れ多いので、白井より度々江戸支配所へ吟味の程を願い出ていたがこの四年間御取り上げがなかった。左京母娘も渇命に及び、また同職一統の職業の妨げになっているのでこのたび白井紀内らは御訴訟を起すこととなった。 |
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正月十三日
☆上野の信高兵部の跡役市谷中町の嶋田兵部へ免許状を渡す。
免許料百疋
☆上総国周集郡長和田村の宮崎伊織、免許状が類焼により焼失したため再び発行する。
以上江戸にて面談
四月朔日
常州多賀郡福田村の鈴木左近
受領願として参上するが、定められている江戸支配所の添簡、御領主の添簡
を持参せず。
四月二日
奥州須賀川町三嶋木常陸(紀伊守)
四月十六日
奥州野州の者受領願に参上
以上西宮本社にて面談 |
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