時の西宮神社社用日誌をひもとく「えびす瓦版」
今号は文成十三年(天保元年一八三〇年)です。


神主 吉井上総介(良明)
権神主 吉井宮内(良顕)
社家 東向良丸



祝部 大森主膳
 〃  大森数馬
 〃  大森大森帯刀
 〃  田村織衛


祝部 廣瀬右京
 〃  堀江左門
 〃  橋本弥太郎


神子  瓶子喜兵衛
 〃  大石長太夫
社役人 辻 左内
 「西宮社頭年来近衛殿御信仰」の故を以って、伊丹の筒井四郎右衛門、小西新右衛門、原左一郎等が尽力し、閏三月に「盤年山」と号す御神馬一疋が奉納されることとなった。神社側では、四年前に近衛様より同じく御神馬奉納があった大津四之宮神主志賀越前方へ御使者衆への挨拶、御神前の作法について尋ね、また八幡宮には御神馬の別当山本三右衛門へ鷹司家からの奉納の際の神馬奉納勤式を伺った。その後伝奏家や大坂御奉行所への御届も済ませ、いよいよ御神馬を迎える日となる。

 閏三月廿一日、武庫川髭茶屋で祝部二人が迎え、廣田村の祝部廣瀬宅で少休され、それより当社へ向かう。神主は拝殿前で出迎える。

 御馬を拝殿正面へ引連れてきた処、御本殿を向いていななき一声がある。

 一行の宿は本陣松村儀左衛門方で、酒は伊丹名酒白玉や西宮酒、菓子は虎屋の干菓子と西宮菓子、茶は喜撰山吹を用意する。

 近衛殿家からの御寄附状は次の通り
 また、この他にも神馬の具として手綱、面掛等二十四点が奉納される。

 そして西宮社前での式は、
 音楽---各着座---中臣祓---神楽---音楽---開御戸---御膳献上---奉幣(東 御殿)---御寄附状・近衛殿よりの白銀献上---中臣祓---神楽---音楽---撤御膳---閉御戸---退出

 御戸開の節に御馬二人の案内に て御本社塀外を三度引き廻し厩に入れる。

本陣にて御神酒、御膳をだし御代官始め下々まで振舞う。神主、祝部一名がご挨拶に参向した。
 同夜五つ過、数馬らは高張小提灯で横道まで送り、高張持ちは三本松で引取る。伊丹当役は駕籠で出立する。

 何分にも雨天につき大いに混雑したが、滞りなく行事を終える。

 四月四日、近衛殿家へ御神馬及び神主御館入りを仰せ付けられた御礼のため上京し、大生鯛一掛、小倉野虎屋三十入、馬代目録、御祈祷巻数を献上する。尚、御馬金子として伊丹へ正月と閏三月と二回に都合五十両持参する。

 産所で行っている芝居からは町方へ運上が上がっているが、神社で行われる芝居には運上がない。これでは差支えがあるので社内の芝居を差し止めて下さるようにと、町方会所から申してきた。前例もないことで捨て置いていると今度は産所から芝居を仕切っている座古屋新太郎方へ、産所の運上を「手伝」えば差支えの筋は申さないと言って来た。

 田村八太夫は上総国周准郡貞元村に住む西宮夷願人宮崎土佐を相手取り職掌差障りの件につき訴訟した。

 妻に梓神子を勤めさせたり、他職へ婿養子になったりと重々の心得違いであった。今後西宮支配を離れて田村八太夫配下になりたいとのことで西宮支配所役人正木伊勢に伝えたところ、職掌について双方特に申す分もないので熟談の上内済とする。
 閏三月五日、文政十二年十二月と 本年正月の二通の御触書が届く。請印の上濱方惣会所へ遣わす。
一通は東海道沼津宿外十三宿并天竜川、中山道板橋宿外十三宿并河渡川、甲州道中小原宿外三宿が困窮につき人馬賃、船賃共割増銭とする件(三割から五割増)、古金銀弐朱判通用停止に伴い引替促進の件、また一通は切支丹宗門の儀につき、上方筋で疑わしき者もあるので早々に申出ること。若し見聞に及びながらこれを隠し、他所から露見するとその所の者までも罪科となる一件

 御摂家の内より神馬御奉納という大切な時期に、祝部田村織衛は伊勢参宮に続いて金比羅参りを行っていた。

 社家東向も差控え中、橋本弥太郎も服中で人が少ない折のことである。

 神主へ無届の抜け参りならば格別、届けの上委細を聞かされ神主より差し留められたにも拘わらず参宮したことは許されないことである。二十日の謹慎を申し付ける。

 尚、この年は西宮から大勢伊勢参宮が行われた(お蔭参り)
 錦織中務大輔殿へ参り、伊勢出火の話を聞く。外宮は三百年前に炎上その後は無い。この時の例によりお取斗いされる。閏三月十九日から廿日に炎上、伊勢本社斗に雨が降り四方末社に少しも飛火なしと誠に不思議なことである。町方七百軒も焼け神馬は二見の浦へ逃げていったとの由。

 御末社の内荒祭宮は、丹後本伊勢からお遷りの節同社に暫くおうつりされたので、外宮にも劣らない宮の由。

 三百年前同様のお取斗いがある。

 尚、この錦織殿は神主上総介の弟である。
 銀子を預り年一割一歩の利息を加えて、来年(天保二年)三月に元利共に返済するという連印證文を作る。これには浅尾市右衛門、植村七左衛門、葛馬忠兵衛、紅野平左衛門、真多長左衛門、當舎久右衛門等全十名が連名している。
寛政二年(1790)に当所酒家中より寄進、奉斎された松尾社の周囲にこのたび同じく酒家中より石玉垣が奉納された。世話人は次の通り

 米屋万助   辰馬久兵衛
 八馬喜兵衛  雑喉屋久左衛門
 (この石玉垣は阪神大震災で破損し現在は板垣根となっている)

[ 解 説 ]

 原左一郎について
このたびのご奉納について初めて発願したのは原左一郎(老柳)であった。この人は戸田宗哲と言い西宮生まれで、代々医師の家系である。長崎や江戸へ遊学し当時は近衛家領の伊丹に住居していた。緒方洪庵と並び称されるほどの人物であった。

 神主・祝部中の館入り
 近衛家よりのご奉納に合せ、同家への館入りを仰せ付けられる。祝部中の装束の着用、受領について文政十年頃より吉田家より再三申立てがあった。これに難義し館入り、近衛家を通してことを運ぼうとしたが結局成就しなかった。

 神事舞太夫田村八太夫との関係
 西宮社人と神事舞太夫とは、関東で再三争論があった。寛文七年(1667)や元禄十五年(1702)に寺社奉行より夷像は西宮、大黒は神事舞太夫がそれぞれ賦与するよう職掌が定められたが、享保十四年(1729)には上総の若白毛で妨げが、またこの年にも職掌についての申立てが出来した。



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